先週のメッセージ       

最適な時と最適な場所      郭 寛城 牧師

聖 書  エステル記 4517

日 時  2008119

 

一、       ユダヤ人の危機

 

旧約聖書のなかで、女性の名を冠した書物に、ルツ記とエステル記があります。今日はその中のエステル記から信仰について学んで見たいと思う。

 

エステルの生きた時代、ユダヤ人は、ペルシャ帝国に奴隷として捕らわれ、アハシュエロス王の統治下に置かれていた。時の王妃ワシテが王の命に背いた為に王妃の位を解かれた。後に新たな王妃の選出で、ユダヤ人のエステルが選ばれたのです。

 

その頃、エステルの義父モルデカイは朝廷に仕えていたが、時の大臣ハマンにひざまずこうとせず、敬礼をしない為に怒りを買い、故に、ハマンはユダヤ人を恨み、アハシュエロス王に告げ口をしてユダヤ人を滅ぼそうと企んだのです。

 

モルデカイと全ユダヤ人は大いなる悲しみを憶え、断食、嘆き、叫びが起こった。そして、モルデカイは王妃エステルに王に同胞を助けるよう求めた。

 

当時、王の許しがなければ、誰も王に謁見することが許されなかった。しかし、エステルはモルデカイに「もしわたしが死なねばならないのなら、死にます」と王に会いに行く決心をした。同時に、同胞に三日間荒布をまとい断食を呼びかけた。これは彼女の強い信仰を表わすもので、神により頼む信念です。

 

時々、私たちが危機に直面することがあるかと思われますが、どうか、神により頼んで、危機を乗り越えることが出来ますように。

 

二、       犠牲することを決心されたエステル

 

エステル記が意味するもの:

   

人類の歴史の中には神の摂理が存在していること。

神の御業は人間のすべてを越えるものです。

神の御業には人間の協力を必要とする。

   

この聖書の箇所で、モルデカイを始め、エステル並びにすべてのユダヤ人たちが、神の救いの業に加えられたのです。

   

エステル記41415で、エステルは真剣に自分の置かれた立場を考え、神に向かって祈られたのです。そして、心の中である決断を下したのです。すなわち、モルデカイにスサにいるすべてのユダヤ人の同胞を集めて自分のために断食して祈るよう求められた。自分は法を背いても王の下へ行き、もし自分が死なねばならないのなら、死にますと決心したのです。(エステル記416)

   

「死なねばならないのなら、死にます」とは、エステル自身の決断だけではなく、自分を神の御手に委ねたのです。「もしこのようなこと」で、王の逆鱗に触れて死を招いても、死ねばすむことであると。これはエステル自身が己を神に委ねる己の証でもあるのです。自分を神のご計画の中に無条件に委ねたことは、本当の意味の献身と言えるのです。

   

兄弟姉妹、イエスキリストの十字架での死が罪びとのために払われた犠牲であれば、私たちが己の罪を認め,悔い改めると、“古い自分”が死に、そして新たな命が生まれてくるのです。

 

三、       結論

 

兄弟姉妹、危機に直面したとき、私たちは、一致団結してすべてを神に委ねるべきです。

ユダヤ人がペルシャに捕らわれ、民族の絶滅の危機に直面したとき、スサにいたすべてのユダヤ人は、王妃エステルを始め、官吏モルテカイ並びに、一般の民人が心を一つに、三日間断食して祈られたそのことこそ、本当の一致団結と言えるのです。

 

エステルの信仰的決心が、一国の王妃であるにもかかわらず、利権や名誉を省みず、適当な時、適当な場所で最適の決心を下すことができたのです。

 

このことから、イスラエルの歴史の上での神の存在を見ることができるのです。私たちが信じる神は、現在も私たちの祈りに応えてくださる活きた神です。

 

 

 

神の知恵

2008/08/24

郭寛城 牧師

一、主を畏れる事は知恵の初め

 箴言1:7 「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」先ずは、神を恐れることが全ての知識のはじめである。これ

は全ての教訓の中で一番大事な教えです。私達は皆子供の時から学校で学び、「知識」と「倫理」等を身につけるが、しかし、これだけでは人間構成に不十

分です、

          私達は神から授かった知恵を頼りに正しい生活を送るのです。即ち「神を恐れることは知識のはじめである」の聖書の言葉通り、人間は神の前で謙虚にならなければ、正しい人生を送れません。

          「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵」をも知らなければ成りません。(テモテU 31415

 

二、聖書が提示した「知恵」

 幼い時から、聖書に親しんで来たキリスト・イエスは知恵に満ち、神の恵みに包まれていた、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ二:4052

 イエスが故郷のナザレの会堂で教えておられると、人々は「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と驚いた。

 

         パウロがローマ書で言われた「しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。」それは善を行い、悪から遠のく意味です。罪を犯し、刑務所に入れられた人達は、罪を償うために罰せられるのであります。パウロは信者達が皆「善に聡く、悪に疎く」になるよう願ったのです。

         願わくは「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように。

           (エペソ1:17

         知恵に満ちるキリスト・イエスの教えは「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントT 1:24,25

 

三、結語

  神の知恵は、「十字架のイエスを通して、我々に永遠の贖いの道を備

 えてくれた」ことです。尚、人の知恵は神を畏れ、悪を遠ざけ、即ち

 「善に聡く、悪に疎く」生活を送ることです。愚か者にならないように、

 箴言の言葉、生活の教訓を軽んじてはならない。

 

 

「あなたにも夜が有る」(ヨハネの福音書3;1−3)

 序)精神病院に入院しているある一人の患者は、自分には皇族の血筋を持っていると自称し、病院内の誰一人、彼を「XX伯爵」又は「XX親王」と呼ばなければ、かっと頭に来て喜ばない体質を持っている。

 ある日、病院が満員になり、伯爵の部屋にもう一人の患者を入居させなければならない状態になり、伯爵の同意を得て患者を入れる決定をした。病院は一人の美人看護婦を選び、伯爵の同意を得る事を託した。「XX伯爵、実は、失礼と思いますが、伯爵の部屋にもう一人のお客様を泊めていただけませんでしょうか?」その日、伯爵は、非常にきげんよく承知してくれた。「ありがとうございます、伯爵。じつは伯爵、あなたは皇族ですが、今度泊めていただくお客様は、なんと、オレは宇宙の帝王だ、という者でございます。」これを聞いた伯爵は、急に大声を出して笑い、君!そいつはきっと気が変な者で、精神に問題があるやつだ」このストーリはいっけんおもしろそうですが、我々現代人の実情とも言えます。

 人は相対的な世界に生きていて、無意識の内によく比較しあい、私はあの人に比べて、あらゆる面ですぐれておる、と思いこみ、同僚となかなかうまくいかない話をよく耳にします。*ごく最近の出来事に5/27の新聞に、今、日本にある、たった二人に横綱同士、同じモンゴル出身ですから、同郷ですから中が良いはずだか、土俵上でのにらみ合う行為、あまりにも“やりすぎ”失態で、みっともないと相撲協会から注意をされた。相対の世界では、なかなか自分の実体を知ることはむずかしい。人間は絶対的存在者と向かいない限り、本質的自分というものを発見できない。

 基督教が取り上げて紹介しているイエス・キリストは唯一の比類なき絶対的存在者である、彼は神であって人間である。神性と人性を兼ねた存在である。

だから人間は誰でもこの方と出会う事によって自分を知り、“対立が絶たれる”。

一)ニコデモ;今日、司会者に読んで頂きましたヨハネ三章に出てくる人物

は絶対的人物イエスに出会って自分の正体を知った一人である。

 本来、彼はユダヤ社会の最高議会(Sanhedrin)の議員で、一般から尊敬されていた教師で、社会的に地位があり、後で知るが、経済的にも裕福であった。ニコデモが、三十歳をわずかに超えた若いイエスにであって驚くべき事を発見したのです。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」自認、完全であると思っていた彼が、初めて自分を知りました。その私の不完全とは「神がともにいない」事です。ニコデモにはイエスの持っていない学歴、学位、社会的地位、世間の富、みな世間の人が求めていた成功者の象徴とする物をもっています。しかし、イエスはこれらの物を、何に一つもっていません。ニコデモにとって致命的なのはイエスが持っている「神がともにいる」事が彼にはないのです。

二)あなたにも夜がある;このニコデモがイエスを訪ねたのが、朝ではなく、昼でもなく、「夜」というのは興味深い、ある人の解釈では有名人があの無学のイエスを訪問する事は人々の目を引きメンツに掛るから夜にした、ある人は昼間は忙しいから、又、ある人は夜の方が、安静していて真理を語るに適している。)」しかし、スイスの神学者ウアルターリユチイ博士は、ヨハネの著者は「夜」に特別な意味をもたらせているのではないか、と言う。

 誰でも自分の「夜」、貴方にも自分の夜があります。この夜の事を考えれば考える度に眠たいはずの夜なのに寝っかない、ニコデモはイエスに会って一層夜の怖さを知りました。

三)「夜」の内容;ニコデモに取って最大の「夜」とは死であります。この世間でどんなに努力して得たものは「夜」の到来によって、何一つ役に立つものがありません。過去の努力で得た学問、学位、名誉、財産、役にたたないばかりか、一切が無に帰し、皆がゼロになります。その事ばかりでなく、年を取る度に健康を損ない、だんだん孤独になって行き、不安が襲って来て、現代病ともいえる「憂鬱病」になり、結果的には自殺に追い込まれた例がたくさんあります。日本では毎年、約三万以上の人が自殺しています、これを人口の割りから計算すると10万人に25人の割合が憂鬱から希望を失って自殺しています。隣の国、中国は10人に¥14人だそうです。日本よりも少ない様ですけれど、人口の割りから計算すれば、この国の人口は13億ですからなんと年間の自殺者は18万2千人になります。

 六月2日、台湾の一般の新聞にこんな悲しい報道が一件載っています。かっては米国に留学して帰ってきた一人の女牧師は、恐らく米国・芝加哥神学院で勉強している間に、同性愛者の問題を切実に知り、同情し、台湾に帰ってからは、1995年11月、この様な人たちの為に台湾で第一間の「同信教会」を創設して礼拝出来る場所を設けまし、彼女は三年後、この教会を離れ別の奉仕にたじさわったが、この事は、社会ばかりでなく、保守的な台湾教会からも多くの非難を浴びました。その後、大学生伝道等、いろいろな奉仕に従事していましたが、なかなか順調にいかず。憂鬱病になり最近、自分の回想録を出版して自殺したそうです。私の想像ではその憂鬱症が同性愛者に礼拝できる教会を創設した事の原因から差別され、この事から引き起こした憂鬱症、のだとしたら彼女を受け入れなかった教会は多い差別問題に関して反省すべきではないでしょうか。

社会学者;ピーター・バーガ先生の著作の中に、「母親はウソを言っているのであろうか」と述べている一章が載っています。“「夜」子供はよく悪夢を見て目をさまします。それは自分を取り巻く世界はまっくらで、恐ろしい場所に迷こんだ怖さで悲鳴を上げて母親を呼ぶのです。(子供の時、誰も経験する)その時、母親は、電気をつけ、「ここにいるよ、何もこわいものがありません」とやさしく言う。それはいままで信頼していた周囲の秩序が破れ、子供を取り巻く世界がくずれる。その時、母親は、子供にとっては、世界の秩序を守る大事な役割を果たすのだと、バーガ先生は言います。

 しかし、この言葉は人間がどうすることも出来ない「夜」を明るく平安にする力がある事でしょうか?否、人間にはそんな力がありません。だから、お互い不安におびえながら、生きているのです。

 もう一つの「夜」は「罪」です。使徒パウロは、ローマ人への手紙七章で        

告白している7;19-20.そしてその結論に、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(7;24)。賢明なニコデモはこのような「夜」の問題からイエスを訪ねてきました。

四)理解しにくい福音;せっかく真心を持って「絶対者」で「神が共にいますイエス」に近がずいたニコデモがイエスから得た回答は「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(v3)残念なことであるが、神による救いの問題は、この世の学問的知識では、理解できないようである。しかし、ニコデモは希望をもって求めつづけ、或は秘書等を用いて、イエスを観察させ、後日、ニコデモにも、この理解出来ない、そのすばらしいチャンスがやってきました。福音書が再びニコデモを取り上げた時、著者ヨハネは「前に、夜イエスのところに来たニコデモ」(7;50)と言って紹介する。時は、イエスが十字架に掛かられる場面である。

五)イエスの埋葬;自分の最も尊敬する先生であったイエスが、大罪人につかう、極刑の刑具である十字架につけられたとは不可解なことで、自分の社会的地位をも忘れてその十字架に近き。人々からムチ打たれ、石を投げられ、ツバをかけられたのに、イエスが十字架上で言われた言葉は、のろいでなく、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカの福音書23;34)

しかも、もっと驚いたことは「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか。」という言葉です。ニコデモにとってイエスのすばらしさは「神がともにいる」ということであった。ところがイエスは自らの最もすばらしい「神がともいる」という事を放棄しても、私たちにとっての「夜」を解決する為に、十字架に掛かられた、と理解し、日ごろ、イエス自身曰く、「狐には、穴があり、空の鳥には、巣がある。だが、人の子には枕する所もない」この言葉を思い出して、本当にたまらなくなり、ニコデモは、勇気をもって同じ議員であるアリマタのヨセフと共に総督ピラトの許可をもらい、まだ誰も使用していない新しい墓におさめた。そして彼、本人は;「そこへ、かってある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香をまぜた物を百リトラばかり持って来た、彼はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の風習に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ19;39-40)。彼らのこの惜しまない愛の行為に、神は復活という人知を超えた神の奇跡のみわざで答えられたのであった。

六)身を持って部落を守った牧師;五月十五日、台湾・自由時報の第一版に動的な記事が載っています。台湾大学、法学部を卒業した原住民(ブヌン族)青年で江阿勇は卒業後、初めは学校の教師として村の学校で奉仕していたが、後に再び玉山神学院に入って伝道の第一線に加わり、台湾東部の寒村、人口僅か五百人の奇美教会に派遣され、日曜日教会の仕事以外、夜は生徒を集めて塾を開いて子供を指導し、村に図書館を増し、村の人たち、特に老人に緊急な病で病院に行く問題があれば、彼の古いジープ車で花連・メノナイト・キリスト教病院に送り、しばしば夜明けまで看病して上げる事も珍しくありません。今年の三月に彼自身、癌と診断され、五月六日、35歳の若さで天に召され、葬式の日、全村民が泣いた、“先生は僅か三年、牧会したが、我々にとっては三十年の奉仕をして下さったと泣いた”。最後まで村民を愛し、遺言はただ一つ、皆が彼の病の医療費として募金して下さったお金(約150万)は病院に基金として残し、病で病院にくる人たちの交通費として使って下さい。神によって新たに生まれた証とはこれです。

六)イエスの受難;多くの人々は、キリストが私たちの罪のために十字架にかかられたことを知らずに、ある人は、馬鹿にした。この人たちは無知のゆえに、最も恥ずかしい罪の発言にもきずいていない。

 しかし、ノコデモのように、遅くても、キリストの十字架に近づいて、その真実を知り、涙を持って、自らの非を認め、悔い改めることの出来る人は幸いである、そんな人物のために「父よ彼らをお赦してください。彼らは、何をしているのか、自分もわからないのです」。聖書に記載されている、自分に勝てないで異邦のローマ人と妥協した「ザアカイ」と言う人物もイエスに接触した
後に罪から開放されて、眞の自由を得た。これが即ち「生まれ変わりであり

、この生まれ変わりがなければ神の国を見る事が出来ない」決して彼が思っている「年をとった者が、どうしてもう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。そして、イエスは三章16節にあのクリスチャンであれば誰でも知らなければならない彼の信仰哲学を述べられた「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、独り子を信じる者が一人でも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉を聴いいたニコデモは十字架のイエスを見てその具体的事実を見て、生まれ変わりの真理をしり、故に、19章以後に出てくる彼の理解にたいする表現が書かれてあるのです。

結)これが生まれ変はって、得られた“新たな生命”です。今日、私が取り上げた奇美教会の伝道者(牧師)江阿勇先生の生涯。イエスと同じく短い35年でしたが、これがイエスから得た「新生命、生まれ変わり」の生命です。

 主にある兄弟姉妹!我々はなにも互いに比較して論じるのでははありません。(この世での比較は、あの精神病院にいる患者の表現と同じにすぎません)比較するなら完全者であるイエスと比較すると「対立を絶たれる」、そして自らを知ることができる。その自分とは「私、自身にも夜がある」事です。

その暗さに驚く、イエスは我々の夜を解決する為に十字架にかかられた、それまでに我々を愛して下さったのです。

 

 

 

一心同体となって主の教会を建立(こんりゅう)しよう

 

 今日、我々はここに集まり、年に一度のクリスチャン会員大会を開きます。この場で、過去をかえりみて、そして心を開いて未来への展望を共に語り合い、もって我々は一心同体となり、主の教会の建立(こんりゅう)に努めて、主の業が盛んになるように励みます。

 

一、一心同体となる

 「一心同体」という言葉は、我々クリスチャンにとってどのような意義がありますか。この言葉は、教会は一つの家庭であって、ここにいる兄弟姉妹の皆は家族であることを意味するのです。従って、我々は教会で愛し合うことを学び、一心同体となって主のために奉仕しなければなりません。また、我々は家族の仲だから、仮に家族の間に何らの誤解が生じても、主の中で我々は許しあい、再び一心同体となって主の業に励むべきではありませんか。何より、我々は自分自身のためではなく、主のために献身しているから、主が祝福を兄弟姉妹の一人一人に与えられますように、一緒にお祈りを捧げましょう。

 なお、例えば、小学校の運動会では、「二人三脚」という競技を行うことがあります。参加者は二人が一組になって、二人肩を組み、その内側の足首を結び合わせ、二人で三脚となって競走するわけですが、二人がリズムを合わせないで、ただそれぞれ一生懸命に走っても、結局はすぐ転倒してしまうのです。我々教会が主のために奉仕することの仕方も、この二人三脚のそれと同様に考えられます。教会が身体であって、兄弟姉妹が手足として役割を果たし、様々の困難な仕事をこなしていくのです。また、皮膚の役割を果たして体をバイ菌などの外敵から守ったり、血液の役割を果たして全身が自由に動けるように栄養分を運んだりして、つまり、まるで一人間の四肢や臓器のように機能することが、ここで強調している「教会の一心同体」ということの大切さなのです。そして、無論のこと、身体である我々教会は、頭(かしら)である主イエスキリストに繋がっているため、我々は主の救いが得られるようになります。

 

二、主の教会の建立(こんりゅう)

 我々の教会は、主イエスキリストの御名(ぎょめい)を奉じて建立(こんりゅう)するわけなので、我々はクリスチャンの模範となる主イエスを見習(みなら)わなければなりません。言い換えれば、教会の建立(こんりゅう)は、神の教え、すなわち聖書を基礎としており、従って、我々はこの聖書の真理を懸命に学ぶべきであります。そして、いつか我々はこの真理によって真の自由が得られるようになります。

これはつまり、我々が主の業に励むことは決して無駄な努力ではなく、主はその努力に応じて我々に祝福を与えられるのです。全てを主イエスに託すことによって、我々の不安が解消され、欠乏が満たされるはずでしょう。これは正にパウロの言うとおり、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動(うご)かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなたがたは知っているはずです。」ではありませんか。

ここにいる教会の兄弟姉妹よ、パウロはこう言いました、「我々の肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。」。これはつまり、我々は自分自身の力によって救いを得ることはできません。パウロは、さらに「主イエスキリストの復活によって、救いが得られるようになる」と言っていました。これこそが救いの神秘ではありませんか。主イエスキリストが再びこの世に臨まれるとき、その瞬間我々クリスチャンは栄光になります。我々は朽(く)ちない霊の体となり、死を克服して主イエスキリストと共に勝利を収めるから、もう死を恐れることはありません。死よ、お前にはもう勝ち目はないのだ。我々クリスチャンは、死者の中から復活した主イエスキリストの導きによって、お前に勝つのだ。

三、結び

 我々の教会は、主イエスキリストの救いに基づく教会であって、ここに来た者は、皆で主イエスキリストの救いを得る兄弟姉妹であります。そのため、我々は無上の光栄と祝福に満たされています。兄弟姉妹よ、これからは一心同体となりましょう。我々のこの唯一である信仰心を子孫代々に受け継がせましょう。そして、お互いに助け合って、「生命」という務めを知り、主がお喜びになりますように、救いの教会を建てましょう。

 

健全なる愛の教会を       郭 寛城牧師

日 時 2008413

聖 書 申命記6:49;リビ記19:18

 

一、       健全なる教会を

 

心身のバランスは健康を示すバロメータです。健全なる教会は神の御言葉に基づき、信者はそれによって霊的に健やかさを保つことの出来る状態なのです。

 

申命記649では、モーセは再三にわたって、イスラエルの民人にいかなる時、いかなる場所にでも、神の御言葉を守るよう命じられました。

私たちの教会も同じように御言葉を守られるよう努力せねばなりません。即ち、御言葉を信仰生活の基準にすべきです。これから二年間、私たちはこの目標に向かって努力をして行かなくてはならないのです。

 

聖書は神の黙示によって記されたものです。昔に書き記された御言葉でありますが、現在も私たちに語りかけています。これらの歴史的な内容は想像以上に霊的に私たちを潤し感動を与えているのです。

アメリカの詩人Emersonは「心の奥底にある霊的なものに比べると、私たちの身の回りや目に見えるものはとるにたらずものである」。と言いました。

 

私たちは神から与えられた早朝の貴重な時間を、ぜひ霊的修養に持ちいりたいものです。それができなければ、一日のうち、静かな時間でもみつけて、祈りを通して神と交われば、霊的に清められ、健全な人になられるでありましょう。教会内の一人一人がこのような努力をなされれば、私たちの教会は健全なる教会になられましょう。

 

二、       愛の使命の実践

 

私たちは口先だけではなく、実際に行動をもって、イエスが示された愛を学び、愛の使命に燃える教会になりたいものです。(レビ記19::18)。

 

イスラエルの歴史の記載によれば、モーゼは神から十戒を授かって民人に命じられ、それが社会形成の大事な原則となりました。十戒から色々な律法が生まれ、生活と密接に関わり、人々に如何にして他人と付き合うかを教え、同時に(敬天愛人)「天を敬い、人を愛する」道筋を示されました。今日の聖書の箇所レビ記1918節は、まさに私たちに「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と教えているのです。

 

イエスはさらに、新しい掟を付け加えられました。マタイによる福音書223740節には、「イエスは言われた。<心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。>。これが最も重要な、第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。<隣人を自分のように愛しなさい>。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と記している。

 

そして、ヨハネによる福音書133435節にも、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と記している。

 

三、       結論

 

健康でないもの、病にかかっているものは、病院を訪ねて治療を受けなければならないのです。教会は聖書に基づき、人々は神の御言葉によって霊的な治療を受けなければならないのです。

 

イエスは盲人の目を癒されました。マルコによる福音書8:2325節には、「イエスはこの盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、<何か見えるか>とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。<人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。>。それで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされた。何でもはっきり見えるようになった。」と記している。

 

同様に、私たちは不完全ではありますが、霊的な医者であられるイエスキリストを必要とします。どうか、私たちがともに健全なる愛の教会を目指そうではありませんか。

 

 

健全なる愛の教会を       郭 寛城牧師

日 時 2008413

聖 書 申命記6:49;リビ記19:18

 

一、       健全なる教会を

 

心身のバランスは健康を示すバロメータです。健全なる教会は神の御言葉に基づき、信者はそれによって霊的に健やかさを保つことの出来る状態なのです。

 

申命記649では、モーセは再三にわたって、イスラエルの民人にいかなる時、いかなる場所にでも、神の御言葉を守るよう命じられました。

私たちの教会も同じように御言葉を守られるよう努力せねばなりません。即ち、御言葉を信仰生活の基準にすべきです。これから二年間、私たちはこの目標に向かって努力をして行かなくてはならないのです。

 

聖書は神の黙示によって記されたものです。昔に書き記された御言葉でありますが、現在も私たちに語りかけています。これらの歴史的な内容は想像以上に霊的に私たちを潤し感動を与えているのです。

アメリカの詩人Emersonは「心の奥底にある霊的なものに比べると、私たちの身の回りや目に見えるものはとるにたらずものである」。と言いました。

 

私たちは神から与えられた早朝の貴重な時間を、ぜひ霊的修養に持ちいりたいものです。それができなければ、一日のうち、静かな時間でもみつけて、祈りを通して神と交われば、霊的に清められ、健全な人になられるでありましょう。教会内の一人一人がこのような努力をなされれば、私たちの教会は健全なる教会になられましょう。

 

二、       愛の使命の実践

 

私たちは口先だけではなく、実際に行動をもって、イエスが示された愛を学び、愛の使命に燃える教会になりたいものです。(レビ記19::18)。

 

イスラエルの歴史の記載によれば、モーゼは神から十戒を授かって民人に命じられ、それが社会形成の大事な原則となりました。十戒から色々な律法が生まれ、生活と密接に関わり、人々に如何にして他人と付き合うかを教え、同時に(敬天愛人)「天を敬い、人を愛する」道筋を示されました。今日の聖書の箇所レビ記1918節は、まさに私たちに「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と教えているのです。

 

イエスはさらに、新しい掟を付け加えられました。マタイによる福音書223740節には、「イエスは言われた。<心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。>。これが最も重要な、第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。<隣人を自分のように愛しなさい>。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と記している。

 

そして、ヨハネによる福音書133435節にも、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と記している。

 

三、       結論

 

健康でないもの、病にかかっているものは、病院を訪ねて治療を受けなければならないのです。教会は聖書に基づき、人々は神の御言葉によって霊的な治療を受けなければならないのです。

 

イエスは盲人の目を癒されました。マルコによる福音書8:2325節には、「イエスはこの盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、<何か見えるか>とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。<人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。>。それで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされた。何でもはっきり見えるようになった。」と記している。

 

同様に、私たちは不完全ではありますが、霊的な医者であられるイエスキリストを必要とします。どうか、私たちがともに健全なる愛の教会を目指そうではありませんか。

 

選 択        郭寛城 牧師

聖 書 マタイ福音書2028;マルコ福音書143242

日 時 200839

 

一、       序言

 

画家は、構図と色の配合にある一定の取捨選択を要するものです。それに加え、専門的な知識と経験を必要とすることで良い作品が出来上がるのです。

能力のあるリーダは、適当な時に適当な人を仕事に充てることの出来る人のことです。これは、多くの選択をせねばならないからです。

台湾の諺に、「碁には定石あり」。即ち、碁打ちの人は自信を持って定石通りに打てば無難にことを運び、正確な選択ができて最後に勝利を手にすることができるのです。

 

二、       イエスの選択

 

イエスがゲッセマネで、最後でしかも極めて重要な選択を迫られましたが、父なる神の御旨に従い、十字架に付けられ、犠牲を払ったお陰で、世の人々が救いに与ることが出来たのです。

仮に、イエスが父なる神の御旨に背いたならば、人間の歴史は書き替えられたのでしょう。当時のイエスの心境は二者択一の極めて難しい選択を迫られましたが、イエスは重要な選択をされたのです。マタイによる福音書2028によりますと「、彼は油で注がれたメサイヤであり、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのと同じように」父なる神の御旨を果たされたのですと記されている。

 

ゲッセマネでイエスは全身全霊をもって父なる神に祈られました。そして弟子たちの離反をも予告されました。鶏が鳴く前にペテロが三度自分のことを知らないと言うだろうと言われ、その通りになったのでした。

 

また、イエスはゲッセマネという所に弟子たちを伴われました。そして死に物狂いで神に祈られました。「アッパ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯を取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ143536)と。

 

この個所の記載から、祈りの真髄を知ることができるのです。本当の祈りとは、自分の意思に基づくものではなく、御旨に従って祈るのです。私たちは、祈りが叶わないことで失望を覚えるでしょうが、祈りを通して神に向かって私たちの心の中の苦しい思いを話しかけることが出来るのです。同時に、祈りによって自分の弱みを乗り越え、神に従う弟子になられるのです。イエスは神の御旨に従うことを選択されましたが、弟子たちはイエスとともに目を覚ますことができず、眠っていたのでした。

 

三、       私たちの選択は何でしょうか?

 

一生の中で、私たちには多くの選択を迫られます。小さいことでは、買い物;大きいことでは、職業や結婚相手、危機に出会った時の処理・・・・等など。これらに直面した時に如何にして正しい選択をするのか?知恵と経験をもって、そして真相を確かめ、判断を下さなければならないのです。今日の聖詩321番では、私たちに、信仰の上で如何に判断と選択をするのかを示唆しています。是か非、善か悪など、この世には多くの紛争がわれらを悩ませているのです。私たちは冷静に、神により頼みながら知恵をもって選別しなければなりません。もし、イエスの真理が私たちの心の中にあれば、自然と正しい判断が出来るのです。クリスチャンはイエスが神の御言葉に従ったように、主イエスの御言葉に従って真理を追い求めなければならないのです。

 

四、       結論

私たちは、一生の中で多くの重要な情況に遭遇して、どうすれば良いかと、恰も十字路に立たされたように、如何に選択するか?左に向うか?右に向うか?それとも立ち止まるのか?そういう時は、まず自問しなければなりません。私たちの目標は何であるか?心の中にはっきりとした目標があれば、いい選択ができるのです。

 

兄弟姉妹、忘れてはならないのは、私たちが大事な選択に迫られた時には、ゲッセマネでの主イエスの祈りを思い起こせねばなりません。即ち、「アッパ、父よ、あなたは何でもお出来になります。・・・しかし、私の願うことではなく、御心に適うことがおこなわれますように。」と。

どうか、神の真理を通して、是非を区別をして、正しい選択ができますように。

 

     日本キリスト教団池袋台湾教会(新)台日語合同礼拝

     2008年2月24日(日)午前11時

     招 詞:イザヤ書 第55章6節・7節b

     交読詩編:25編 6節−14節

     聖 書:ヨハネによる福音書 第14章6節−7節

     メッセージ:「わたしは道であり、真理であり、命である」

     讃美歌:21−17、21−566、21−91

     聖歌隊:聖歌400「きみもそこにいたのか」

 

お早うございます。受難節第3主日を迎えました。

今年のイースターは3月の第4週、23日です。

受難節は第6主日までありますから、あと3回の礼拝を通して、私たちは主イエス・キリストの受難の日々を想い起し、イースターの喜びを心から覚える準備をしていくのです。

ところで、今朝、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第14章6−7節です。ヨハネによる福音書は、1章から21章まで全部で21の章からなっていますが、その中で13章から21章に至る記事が、イエス様の死の前日から復活まで、わずか4日間の出来事に集中して書かれています。つまり、福音書全体の約半分が最後の晩餐以後の物語に費やされているのです。このことは、量的のみならず、質的にも、この出来事が決定的に重要な意味を持っていることを意味しています。ヨハネによる福音書を見る限り、それは次のように理解出来るのではないでしょうか。

最後の晩餐以後、イエス様の心を捕らえて離さない事柄が二つありました。その一つは、言うまでもなく、ご自身が十字架にかかるということ、そしてその二つは、3年間寝食を共にし、この世の地位、名誉などの全てを捨て去って自分に付き従ってきた弟子たちを残して去っていかなければならないということでした。私は、愛する者を残して先立つことがどれほど辛いことか、その経験はありません。しかし、成人して一人立ちしている者ならともかく、まだ幼い者たちを残して世を去っていかなければならないことがあるとしたら、それがどれほど辛い、耐え難い事柄であるかは、自分と子どもたちとの別れを考えてみても少しは想像がつくのです。イエス様にとって弟子たちは、肉体は成人していても、霊的にはまだ幼い子どものような者たちでした。その彼らを世に残したまま、自分は神の御許に帰らなければならない。しかも、私の弟子ということで、私がいなくなったあと、激しい迫害が彼らに加えられるのは火を見るより明らかな状況の中でです。その迫害にこの弟子たちは耐えられるのか。信仰を守り通すことが出来るのか。恐らく、自らの死と残していく弟子たちのことを考えると、イエス様の胸は不安と心配で押しつぶされそうになっていたに違いありません。そして、その弟子たちに与えるべき言葉としてイエス様が語られたのが13章以下の訣別、即ち別れの言葉であり、その中でも特に14章6−7節のこの言葉は、イエス様の最後の言葉の中でも最も重要な言葉なのです。この言葉こそ、彼らを支え、励まし、最後まで信仰をもって生きる勇気と希望を与えた言葉でした。

14章1節から読んでみましょう。

1:「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

「心を騒がせるな」。原語をそのまま訳せば、「あなたがたの心がかき乱されないように」です。一切を捨ててイエスに従った弟子たちにとって、師と仰ぐイエス様の死は、決してあってはならないことでした。それは、イエス様に敵対してきた人々に対する完全な敗北を意味し、又イエス様の救いの業が途中で挫折すること以外のなにものでもありませんでした。そんなことが起こり得るはずがない。この人は神の子ではないか。頭では分かっていても、底なしの不安と恐れが弟子たちを襲いました。もしそんなことになったら、イエス様が死んでしまったら、一体自分の人生は何であったのか。一体何のために自分は全てを捨ててイエス様についてきたのか。このように、動揺する弟子たちに対し、イエス様は決然としてこう言われたのです。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と。

神を信じ、わたしをも信じる。つまり、イエス様のこの言葉は、神を信じる信仰と自分に対する信仰を等しいものと置いたのです。イエス様に無条件の信頼を捧げ尽くすこと、これが神を信じることであると語られたのです。

2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

3:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

弟子たちにとって師と仰ぐイエス様の死。それは確かに現実の目に見える世界では、敵対するこの世の力に対するイエス様の敗北です。しかし、信仰をもってこの出来事を見るとき、それは全く違って見えてくるのです。イエス様は、この死によって神の御許に帰り、彼を信じる人々をそこに迎え入れる準備をするのです。そして、準備が出来れば、イエス様は再び弟子たちのもとに帰って来るのです。こうして、弟子たちも又、イエス様と共にいつまでも神の御許に住むことが許される。これこそがイエス様の死の信仰的に意味するところでした。

4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

神の御許に行く道、それがどのような道かトマスには分かりませんでした。トマスは、どこかを通れば神様の所に行ける、そんな道を思い描いていたのです。しかし、それは全くの誤りでした。神様のもとに至る道とは、どこかを通るような道ではなく、ただイエス様を神の子、救い主と信じ、その愛の中に留まることなのです。即ち、

6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

イエス様を信じ、その愛の中に留まる。つまりイエス様と私たちが、イエス様の愛を仲立ちとして人格的に結びつく時、私たちは初めて神の御許に至ることが出来るのです。イエス様の愛の呼びかけのうちに留まることが神に至らしめる道であると同時に、イエス様は神の実在そのもの、真理であり、神が与えられた命なのです。そうです。つまり、イエス様と共に過ごした弟子たちは、

7:あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」のです。

 

しかし、私は、この時に最後の晩餐の場面を思います。そこには、いま5節に登場した、イエスを神の子と信じることの出来ないトマスがいます。これからイエスを裏切ろうとするユダがいます。さらに、ペトロを始めとしたそれ以外の弟子たちは、これからイエス様の身に起ころうとしていることの本当の意味を理解出来ないでいます。

つまり、最後の晩餐を行うイエス様を取り囲んでいるのは、弟子たちの不信仰と裏切りと無理解でした。イエス様はただ一人、神の与えられた試練に立ち向かわなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような中にあって、ユダヤ人の奴隷すらしない、つまり、異邦人の売られてきた奴隷にしかさせることのない最も卑しむべき仕事を、弟子たちに対するご自身の最後の仕事としてなされたのです。それは、一人ひとりの弟子たちの足を洗われたことです。互いに愛し合いなさい、仕え合いなさいとの教えを自ら示したのです。不信仰と裏切りと無理解の中にありながらも、最後まで弟子たちを愛し抜かれたイエス様、そうです、主イエス・キリスト、このお方こそ、私たちの人生の道しるべであり、人生の真理であり、そして私たちに永遠の命を賜る方、生きる希望の源(みなもと)となるお方なのです。

しかし、ひるがえって、私たちは己の姿を思わずにはいられません。私たちは、イエス様の指し示された道、その愛の中に留まる道を知りながら、なお完全にはその道を歩めずにいます。時には不信仰に陥り、時にはその愛を裏切ってしまいます。そして時には、キリストの十字架と復活の意味が分からなくなるのです。しかし、そのような不完全な私たちを、イエス様はなお愛して下さっている。そのような弱き私たちのために、イエス様は今この時にも執り成しの祈りを神にして下さっている。だからこそ、私たちは、今日も神に祈り、生きることが出来るのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

この御言葉を心のうちに刻み、主イエス・キリストの指し示された道、その愛のうちに留まる者となれるように、そして互いに愛しあい、仕える者となれるように、祈りましょう。

祈ります。

 

 

生き甲斐のある人生      郭 寛城 牧師

日 時 2008.0210

聖 書 出エジプト記2012;ピリピ書21216

 

一、       序言

日本の平均寿命は、女性は85才を超え、男性は80才に届こうとして、ともに世界各国の上位を占めている。年配の人への医療福祉の努力のせいでありましょう。長寿で生き甲斐のあることは人生の目標でもあるのです。ですから、ある人は、どこかの国でも行って、悠々自適な生活を過ごせればよいなと願うわけです。

 

聖書では、人類は如何にすればこの世で長寿を保つことができるかについて触れている。それは、生活が豊かかどうかではなく、親を敬えば長寿が得られると記しています。(出エジプト記20:12)。何と不思議な答えではないでしょうか?これは私たち人類に対する重要な教えなのです。家庭倫理は大事なことです。社会の倫理的関係や、仕事の倫理的関係も非常に大事です。倫理的関係は人間関係をよりスムーズにすることができるのです。